ジャマイカの歴史について
ジャマイカの略史を掲載しています。
1494年 | コロンブスによるジャマイカ島「発見」 |
1670年 | 英領植民地 |
1944年 | 選挙による議会設置 |
1957年 | 英国自治領となる |
1962年8月 | 独立(カリブ海英領植民地の中で最初) |
参照:外務省
ジャマイカの歴史 概要
過去5百年間のジャマイカの歴史は、自由と正義を勝ち取るために闘ったジャマイカ人の勇気と、逆境や差別に直面しても弛まぬ抵抗と決断が顕著に見られるものです。現代のジャマイカは、ジャマイカの先住民に対して行われた集団虐殺という歴史的遺産をもとに、また3百年以上の間アフリカ出身のジャマイカ人が苦しんだ奴隷制度と抑圧の上に、そしてヨーロッパ、アフリカ、アジア、中東系の人々が、カリブ地域中心に位置する、誇りを持ち自由で発展する国を建設しようと相互に取り組んだことを基に、建設されました。
最初のジャマイカ人
最初のジャマイカ人は、A.D.600年頃にジャマイカに住んでいたタイノインディアンです。この人々は、南アメリカの北海岸から移り住んだ石器時代からの人々です。約9百年間ジャマイカに居住した後、1494年スペインの征服から50年も経たないうちに、スペイン人居住者の搾取と、飢えと、ヨーロッパの疾病に対する抵抗力不足のため、全滅してしまいました。多くのタイノがスペイン人による土地の占領に対して激しく抵抗しました。何人かは奴隷として仕えるよりも、自ら命を絶つことを選びました。タイノの人々が話すアラワク語は、多くの語に残っています。例えば「ハンモック」「ハリケーン」「タバコ」「バーベキュー」「カヌー」などです。ジャマイカということばは実際、「ザイマカ」というアラワクの言葉からきていて、「森と泉の島」という意味です。
スペインの時代
クリストファー・コロンブスが、ジャマイカに足を踏み入れた最初のヨーロッパ人です。コロンブスは、新世界への二回目の航海中の1494年5月3日、ジャマイカをスペインの領地だと主張しました。1510年ジャマイカにスペイン人が入ってきて、以前から住んでいたタイノの人々は奴隷にされ、やがて絶滅してしまいました。16世紀の前半には、西アフリカから奴隷を輸入してジャマイカで働かせるという慣習が始まりました。ジャマイカで最初の町が、スペイン人によりセント・アンズ・ベイにつくられ、セヴィーヤ・ヌエヴァと呼ばれました。1538年スペインは、ジャマイカの首都をスパニッシュ・タウンに移しました。しかし、ジャマイカでは金が発見されなかったので、非常に多くのスペイン人がジャマイカに住んでいたことはありませんでした。その代わり、ヨーロッパと南北アメリカの間を航海するスペイン船に食糧を供給するため、プランテーションがつくられました。スペインによるジャマイカの統治は150年以上の間続き、この時期の名残りは、スパニッシュ・タウンの歴史的建造物や、ジャマイカの多くの川や山、町につけられたスペイン語の名前に見られます。
イギリスの時代とカリブの海賊
1655年イギリスの海軍が、スペインからジャマイカを奪いました。そしてイギリスは、3百年以上の間ジャマイカを占領しました。イギリスは、その地域におけるスペインの支配に対抗し、またスペイン人の儲かる金・銀の貿易を妨害するため、カリブ海の中心というジャカリブの海賊マイカの有利な位置を利用しました。ジャマイカで最初のイギリス人居住者の多くが土地所有者で、その他はイギリス人の承諾をもとに活動していた海賊でした。
ヘンリー・モーガン卿のような海賊は、傭兵や冒険家と一緒に、中央アメリカ及び南アメリカから金・銀をスペインに運ぶスペインのガレオン船を襲っていました。拠点としていたポート・ロイヤルは、盗んだスペインの金によってまもなく裕福になり、17世紀には「世界で最もよこしまな町」として知られていました。
ポート・ロイヤルは、1692年壊滅的な地震に見舞われほぼ完全に崩壊し、またその後30年間次々と襲ったハリケーンによりさらなる被害を受けました。その頃までには、イギリスとスペインは平和条約に署名し、海賊の必要性も消滅しました。ジャマイカは、貿易や、砂糖、ココア、その他の農産物の輸出に、もっと関わるようになりました。海賊の衰退は、地震によるポート・ロイヤルの崩壊と相まって、もっと安全な島の南部の自然湾がある、キングストン近隣の漁村の台頭につながりました。キングストンは、やがて1872年にジャマイカの首都となりました。
マルーン
1655年スペインからイギリスへの統治移譲による激動の中、それまでスペイン人に所有されていた西アフリカの奴隷の多くは、ジャマイカの内陸丘陵地へ逃亡し、その後ジャマイカで200年の間ほとんど続いた奴隷制度への抵抗の先駆けとなりました。この逃亡した奴隷達は、西アフリカの自分達のルーツに基づく固有の文化を独自に発展させました。マルーンとして知られるこの人々を、イギリス人は再び捕えることも鎮圧することもできず、1739年政治的自治が認められました。この人々の子孫と文化は、現代ジャマイカに今日存在しており、これは彼らの技術と不屈の精神の証です。
カリブ地域のアフリカと奴隷制度への抵抗
スペインが始めたアフリカの奴隷労働力の輸入は、イギリスによってもっと強烈に継続されました。そして砂糖生産がその範囲と価格両面で増加するに従って、輸入奴隷の人数も着実に増えていきました。ジャマイカの奴隷の殆どが、今日のガーナ、ナイジェリア、中央アフリカの国々から来て、アカン、アシャンティ、ヨルバ、イボ、イビビオなどの人々が含まれていました。18世紀までにはジャマイカは、イギリスの最も有益な殖民地の一つとなりました。しかし、奴隷が耐えなければならなかった困難は、凄まじいものでした。家族は日常的に離れ離れにされていました。住居と衛生状態は最悪でした。殴打や暴行は横行していました。たくさんの奴隷が、過労と飢えで命を落としました。ジャマイカでの西アフリカの奴隷の平均寿命は7年でした。
奴隷貿易は1807年に廃止されました。それまでに、およそ2百万人の奴隷がジャマイカに売買され、西アフリカからカリブ地域への残酷な航海の途中、奴隷船の中で何万人もの人が命を失いました。そして約250年に及ぶ抵抗を経て、1838年遂に奴隷解放を成し得ました。200年以上の非人間的な屈辱は、西アフリカの奴隷による激しい抵抗を経て、またイギリス議会の見識ある議員達とイギリスのキリスト教反対勢力の支援も得て、終結しました。ジャマイカにいるキリスト教の宣教師達も大きく貢献しました。彼らは奴隷を人間として接し、「ユダヤ人でもギリシャ人でもない。奴隷でも自由の身でもない、男でも女でもない、イエスキリストの名のもとに皆一つなのだから」というキリスト教のゴスペルに目覚めさせました。奴隷制度の終結は、プランテーション制度の崩壊を招きました。自らの自由のために闘った西アフリカの奴隷達は、もはや以前の主人のために働こうとはしなかったからです。これに、失業や重税や干ばつなど他の要因も併さって、1865年危機が起こり、それにより古い社会的・経済的パターンが決定的に急速に変わりました。1865年10月にモラント・ベイの反乱は、非常に厳しく鎮圧されて、その主導者達は処刑されました。この危機に関するイギリス人総督の処理の仕方により、その総督はロンドンに召還されました。しかしこの総督はジャマイカを去る前に、恐れる下院にその存在の消滅のために投票するよう促しました。代わって、1866年英国議会令により、総督が唯一の行政・立法権を行使する直轄植民地形式の政府となりました。
カリブ地域のアジアと中東
ユダヤ人は、砂糖生産のために16世紀初めジャマイカに最初に入ってきた人種のうちの一つです。契約労働期間が終わってから、彼らは商売やその他の仕事に就きました。その人口は少数ではありますが、ジャマイカでこれらの分野でいまだに大きな影響を持っています。
奴隷制度の廃止以来アフリカ系ジャマイカ人が立ち去ったさとうきびのプランテーションで契約労働者として働くため、1845年最初のインド人がジャマイカに到着しました。最初の労働者は北部インドから来ました。後に他の人たちは、アター・プラデシュ、ビハー、中部地方、パンジャブ、北西フロンティアから来ました。
1854年最初の中国人移民が契約労働者としてやって来ました。ほとんどが香港及び中国南東部の広東省から来ました。
20世紀初頭、自国では政治と宗教上の迫害を感じ、より良い生活を求めて、パレスチナやレバノンからの移民がジャマイカに定住しました。
中東、インド、中国の人々は、出身地の文化的価値観の多くを維持し、自らの伝統と専門性と共にジャマイカ社会に溶け込みながら、農業、商業、その他の仕事で貢献し、ジャマイカを豊かにしていきました。
独立への変遷
1938年までに、世界的経済不況によって生じた苦難により一層激しくなった直轄植民地制度への不満から、本格的な広範囲の暴動が勃発しました。これらの事件の結果、最初の継続的な労働組合が形成されることとなり、それに関連した政党の形成にもつながりました。民族自決の必要性もますます明白になってきました。 ジャマイカの活動家と労働組合指導者達の政治的扇動は、1944年二大政党の下院を設置し、閣僚の任命と普通選挙権を定めた新憲法の許諾をもたらしました。さらなる憲法上の進展は1953年と1957年に行われ、1959年完全な自治政府が手に入れられました。
1958年ジャマイカは西インド諸島同盟の創立メンバーになりました。しかし国民投票の結果1961年に脱退しました。1962年8月6日、300年に渡るイギリスの統治の後、イギリス連邦の中で完全な主権を持つ独立国となりました。
ジャマイカの独自性
アフリカの遺産は、数限りない形でジャマイカに生き続けています。それはジャマイカの人々の人種構成に最も明白に見られます。文法と発音が西アフリカのトウィという言語の影響を強く受けているジャマイカの言葉パトア語にも見られます。ジャマイカの音楽と踊りにも見られます。宗教の礼拝や儀式に、また食べ物や衣服にも見られます。
イギリスの遺産も、ジャマイカに多くの形で生き続けています。例えば、英語が公用語です。ジャマイカの議会の長は、イギリス女王陛下です。ジャマイカ政府の制度はイギリスの議会をモデルとしています。ジャマイカの法律はイギリスのコモンローアンドプラクティスに基づいています。クリケットは国のスポーツです。
ジャマイカの国のモットーである”Out of Many, One People” (たくさんの人種から成る一つの国民)は、異なる人種と信条の人々が何世紀もの間共存し、ユニークなジャマイカの独自性と、共通の国運を造り上げてきたことを反映しています。
参考:Embassy of Jamaica